歴史と人物に学ぶ NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ⑱」  著:野見山 登

白洲次郎氏と日米安保の密約
私は、湾岸戦争が勃発した頃、坪内翁を尋ねたある日。坪内翁が『今日はホテル奥道後の私の部屋で会食をしましょう』と、案内して下さったことがある。この特別室は、50畳位あり今では希少価値のあるチーク材の無垢材をふんだんに使い、天上の彫刻も豪華で、入口のドアは2重扉となっており金具はすべてキラキラ輝きのある黄金色の超豪華な要人をおもてなしするにふさわしい部屋であった。いつものように食事をしながら、坪内翁が突然『佐世保の米軍基地には、世間に知れると大騒ぎになるので秘密裏に核兵器が保管しておるんじゃ』と、言われた。驚いた私に、坪内翁は『先生じゃから話をしますが、以前、白洲次郎が尋ねてきてな、丁度この部屋で秘書を含め人払いをし、白洲がいきなりここに土下座しょって、坪内さんワシを男にしてくれと、いいよったんじゃ』話の内容は『逗子の米軍基地が手狭となり拡張と、米軍人の社宅五百戸建設計画に住民の反対運動で頓挫し困っている。これはアメリカと日本が日米安保条約で取り交わしている問題で、日米間に亀裂が生じ大問題に発展しかねない、何とか解決しなければならないと言われたんじゃが』との話であった。以下、翁よりお聴きしたその時の内容を思い出しながら記載いたします。
白洲次郎氏は戦後の日本を国際社会に復帰させるため、吉田茂元総理大臣のブレーンとして活躍した人です。戦後初の貿易庁長官に就任し、後の通産省誕生にも尽力されました。神奈川県逗子市で米軍施設が住民の反対運動に遭い、撤去を迫られていました。米軍施設の撤去は、日米安保条約の存続に関わる問題でした。そうした中、昭和58年、白洲氏が宮沢喜一氏(後の総理大臣)、永山時雄氏(元昭和石油会長・後の通産省官房長官)と共に坪内翁を訪ねて来られたそうです。宮沢氏と永山氏がゴルフを楽しんでいる間、白洲氏は大好きなゴルフをせずに坪内翁に重大な話をされたそうです。白洲氏は『日本国のため、佐世保重工の構内に弾薬庫を造り、米軍住宅を五百戸を世話して欲しい』というものであった。白洲氏の尋常でない願いに、坪内は強い衝撃をうけた。米軍の施設を造れば、強い批判が出ることは確実である。それでもあえて白洲氏が要請するからにはよほどのこと、政府にも出来ない米軍施設を、ましてや造れる民間人は他にはいないだろう・・・。坪内翁は思い悩んだ末、非難を覚悟で白洲氏の願いを承諾したのです。米軍佐世保基地の隣接地である佐世保重工業の一角に資材倉庫と社宅建設の名目で県に申請、弾薬庫と住宅五百戸を建設、それを米軍に寄付をしました。湾岸戦争が勃発し、米軍佐世保基地は原子力潜水艦やその他の艦隊が寄港、補給や修理で、にわかに活況していたのである。坪内翁は、核兵器がきっと保管されていると、予測して私に内緒で話をして頂いたのである。

坪内翁と米軍の関係で、知られていない事実、特筆すべき問題
レーマン元駐留米軍司令官は、日本に在任中、勲一等を親授されましたが、盗難に遭い困り果てていた。当時の谷川和徳防衛庁長官らが新しく作り直す資金を集める為、財界に協力を求めていました。しかし、資金を出すには理由が立ちにくく費用もかさむことから、協力を求めていましたが、協力者はなかなか現れなかった。河本敏夫元国務大臣の助言から、谷川防衛庁長官は坪内壽夫氏に依頼しました。坪内翁の協力で新しく作られた勲章を渡され、レーマン氏も大変喜ばれた。レーマン氏はアメリカに帰国するに際して、坪内翁に日米協調の標にと、アメリカンディゴの木を贈り、坪内に感謝の意を表しました。以後、レーマン氏と坪内翁の親交は深まり、坪内翁がアメリカ視察をした際、海軍長官であったレーマン氏が直々に出迎えペンタゴン(米国防総省)を案内されたそうです。
レーマン氏より日米協調の標にと贈られたアメリカンディゴの木は、その後奥道後ゴルフ場の11番ホールに植えられ、手入れと株分けをし、今では約3千本となっている。

元防衛庁長官・三原朝雄氏より建立された感謝の公徳碑
日本の安保条約の精神を守った坪内翁は孤高の人であった。誰も手をつけようとしなかった、米軍の弾薬庫と住宅5百戸の建設。受入地がなければ日米間の信頼は崩れる。誰かがやらなければならない無窮の非難を覚悟で自己を犠牲にしても将来に日本の禍根を残さぬその勇気ある行為に真の経営者の姿を見た。防衛族一同より此処にその名を刻み日本の将来の道標とする。

歴史と人物に学ぶほど生きた学問はない!   安岡正篤先生の言葉

次号もお楽しみに!

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