歴史と人物に学ぶ NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ⑰」  著:野見山 登

塩田を廃止し工業地帯を提唱

坪内翁は、松田令輔元専売公社副総裁とは、満州国時代、総務局主計副長をしていたことから縁があり、松田元専売公社副総裁は郷里の山口に帰る途中、高松港経由で道後温泉に行く為、松山によく訪れていた。坪内翁ご夫妻はその都度、高松港まで松田ご夫妻を出迎えていたとの事。(当時、四国へは宇高速連絡線が便利であった為)

ある時、列車で松山へ向かう際、大きな構想について話した。
当時、佐世保重工業が日本初の大型タンカー『日章丸』を建造し、世間の注目を集めていた。坪内翁は、早速佐世保重工業を視察して、技術的に何十万トンでも建造可能なことを知り、来島ドックにも百万トンドックの建設を計画していた。さらに日本国にとっての壮大な構想を考えていました。

『アメリカや西ドイツの工業地帯は内陸部にあり、川をさかのぼるため、二万トンを超える大型船は入港出来なんじゃった。つまり日本は大型船の入港ができる工業地帯を造れば、資源の輸入、製品の輸出コストが格段に安くなり、日本は大きく発展すると読んだのじゃ』松山へ向かう列車の中、車窓から海岸線に広がる塩田が見えていた。

瀬戸内海沿岸は、江戸時代初期から末期にかけて、良質の塩を産することで知られ、特に来島ドックの本拠地波止浜では、波止浜の塩といえば、塩買船で江戸や東北にまで運ばれていた歴史を持ち、沿岸部一体には塩田が広がっていたのだ。
坪内翁は、松田公社副総裁に『日本の沿岸部にはいたるところに塩田があります。それも道路や鉄道の便のいい所の沿岸を占有している、これは歴史的に当然のことでしょうが、塩田が占有している限り大きな船は作れません。
アメリカや西ドイツは造船に河川を利用しています。しかし日本には20万トンも30万トンもの巨船を浮かべるような川はないのです。やがて30万トン以上の船を造らなければ、国際的な競争に負けてしまいます。
臨海工業地帯ができれば、造船所のドックもできるし、製鉄所もそこで操業でき、原料を積んだ船も横付けでき、製品もそこから船積みするようになれば、日本の国際競争力は必ず世界一となるでしょう。
製塩は開発途上国に譲り、日本は塩を買う側になるのです。あの塩田を埋め立て工業地帯にすれば日本は大発展をします』と進言したのです。

この耳寄りな話に松田氏は大いに興味を示し、自らアメリカ、西ドイツを視察し坪内翁の構想に確信を深めました。しかし、当時は政策で助成金を出して塩田を保護し、同様にエネルギー確保の面から国内の炭坑も保護されていました。
塩田の廃止や石油の大量輸入は保護されている側の反発を招き、野党からの反対が懸念されました。政府側からこれを説得するには無理があったことから、松田氏は利害関係のない外部の坪内に根回しを依頼したのです。
又、当時、大蔵政務次官だった村上孝太郎参議院議員(松山市出身)の力を借りるようにも助言しました。坪内翁の真剣な説得に浅沼稲次郎社会党委員長ら野党も理解を示し、大した反対もなく塩田廃止は決まりました。

これによって、塩田跡は大工業都市に生まれ代り、日本は工業国日本として飛躍的な発展を遂げたのであります。

歴史と人物に学ぶほど生きた学問はない! 安岡正篤先生の言葉

次号もお楽しみに!

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