尾道市~今治市を結ぶ民営架橋計画
本州と四国を結ぶ大橋の構想は、大平正芳氏や三木武夫氏ら大物政治家を出していた香川県と徳島県が一歩リードし愛媛県は遅れを取っていた。
もし、尾道市~今治市ルートが民営で出来ると、香川県・徳島県も国の予算が使えなくなり民営でやらざるを得なくなる。
昭和40年、坪内翁は先手を打つ方法として株式会社を設立し民営による架橋計画をした。
坪内翁の構想は、建設のための資金を現物出資で集めることであった。鉄綱メーカーは鋼材、セメント会社はセメント。さらに漁業権、土地に至るまで、その資金はすべて株券によって支払うものであった。ルートに架かる十箇所の橋は建設会社が同時に着工し、短期で建設させる予定であった。
坪内翁は、架橋会社の社長を広島県出身の永野重雄氏(当時/元新日鐵会長)に、副社長を佐伯氏(当時/近畿日本鉄道会長)に引き受けてもらい事業に信用をつけることにした。架橋会社の株を担保に融資をうけられるように、伊予銀行と広島銀行を中心に説得した。両銀行は、その資金集めを目的に『架橋預金』を設け、それぞれ百億円以上を集めたそうです。架橋ムードを盛り上げるため、私費を投じフランク永井が歌う『でっかい夢』をつくったが、歌詞に将来、ルートをトンネルで大分まで伸ばそうという夢も盛り込まれていた。又、今治市においては、本町商店街のアーケードを大橋のイメージにあわせたデザインで建築し市民を巻き込んで盛り上げていました。
架橋会社社長の予定であった永野重雄氏は、坪内翁の架橋民営化構想に賛同し、役員会の了承を得るため、坪内翁を役員会に招集し説明をさせました。
役員の田坂氏が『製鉄所の鉄の需要が低迷し、鉄の売れないときに着工してくれ』と、要望すると、永野氏が机の下で坪内の足を蹴り、『ウンと言っておけ』と、小声で指示したとのこと。翁は『わかりました』と返事をして役員会の了承を得たと、永野氏との思い出を楽しそうに話して頂いた。
ところが、坪内の行動を心よく思わなかった当時の愛媛県白石知事や一部の政治家、財界人が、民営などでつくられては政治家として、財界人としてメンツが立たないという理由で潰しにかかったのである。
愛媛県がひとつになってこそ進む計画でしたが、盛り上がったムードは壊れ株式会社設立を前にして計画を中止せざるを得なくなり頓挫したのです。
本州から四国への架橋は、神戸~徳島ルート・岡山~香川ルート・尾道~今治ルートの三ルートありますが、共にすべて大赤字を抱え現在は民営化されている。
※資料出所:坪内翁80年の足跡より
私は、坪内翁にこの感動的なお話をお聞きして、翁の構想の真似はできないが、九州と中国・四国を『人と人を心でつなぐ、夢の架け橋』を実現した。
ヒューマンネットワーク養心の会である。北九州をスタートに、養心の会北九州・別府・山口・愛媛・播磨・小豆島・鳥取・福山・富士・石川・広島・11箇所で発足。
各地で毎月1回、著名人を講演会の講師としてお招きし、3千円~5千円で、講演会終了後は茶話会を開催した。
さらに、年に1回全国大会を1泊2日で志師塾として開催。
しかし、各地の養心の会は23年から25年を経過し、各地の主宰者が歳を取ったり、亡くなられた方もおり、お世話が出来ず残念ながら、現在は4箇所しか存続していない。
解散された養心の会の方々は、新たに『掃除に学ぶ会・ハガキ人の集い・便教会・木鶏クラブ・天風会・ネットワーク地球村』等の名称の諸団体に所属し研鑚を積んでいる。
◆次号は、坪内翁に関係する芸能界やスポーツ界の方々との逸話、その他を取り上げます。
歴史と人物に学ぶほど生きた学問はない!
安岡正篤先生の言葉