ストライキの実情について
はじめは組合の役員選挙がからんでいたようだ、坪内翁が提示した三条件を呑むか呑まぬか、それが問題になって、饅頭で買収しようとしたと言う表現が生まれ、ストに至ったのだ。坪内翁は饅頭問題などナンセンスなことだと思っていたので、これも労組の国竹委員長らが有利な結果を得るためのことに違いないと、黙視して選挙が終わるのを待った。
ところが選挙が終わっても、組合側は三条件に調印しようとはせず、翌1979年2月(S54年)にようやく調印して、坪内翁は一律15%の賃金カットを実行した。三条件のひとつが実際に行われ、当然組合員から不満の声は上がった。
『何故、幹部はこんな条件を承知したのだ。これが労働者の生活を向上させることなのか』それまで会社側が労組に対応してきたやり方と同じように、労組幹部もまた組合員に対する状況説明を曖昧なまま、賃上げの数字だけで引っ張ってきた欠点が露呈してしまったのだ。
会社の再建には従業員の協力が必要なのだと言う説明は、即会社寄りということになってしまう雰囲気が濃厚だったのである。労使対立が労働運動の基本になっていたのだ。
しかし、資本主義と社会主義との対立という時代は終り始めていた。三条件は呑む呑まぬに関係なく、そうしなければ職場の存続が危なくなる事態を救うものだったのだ。よく説明すれば誰にでもわかることなのである。賃上げや賞与カットも週休二日制をやめることも、永久と言うわけではなく、会社の経営状態を健全なものに建て直した時には、それこそ労使双方が喜んで復活させるべきことだったのだ。ところが、その説明を避けてしまった労組幹部は、不満の声が高まると、自分たちの立場が危うくなると感じ、焦りはじめた。そこで彼らが採った方策は、またしても労働運動の基本に戻って、労使対立の激化の方向へ組合を誘導するやり方をとったのだ。
三条件を受け入れる調印をしてしまっているので、労組幹部は新しい戦法をとってきた。
それは残業協定であった。これは労使間協定で、半年から1年に一度、残業をどうするかどうか労使間で話し合う協定であるが、労組幹部は組合員に対し、自分たちの強硬姿勢を示すため、その残業協定を、残業をするか、どうするかを当日の4時半に行うことを決めたのだ。毎日午後4時半になると、現場の課長クラスが組合の執行委員と、その日の残業を認めるか、話し合いをはじめたのだ。これでは仕事がうまく進むわけがない、急ぎの仕事があれば、残業をしてでも間に合わせるのが当然だろう。しかし、労組は会社側が困る状態をつくり出して、自分たちが主導権を握るのが目的だった。会社を再建しようと言う気持ちなど、ひとかけらも見いだせない。
坪内翁は毎日残業協定をするくらいなら、いっそのこと、残業そのものを廃止してしまえと、残業をいっさいさせないことにしてしまったのだ。労組側は狼狽し、賃金カットは15%され、そのうえ残業も出来なくなってしまったのだ。
『坪内は我々を兵糧攻めにするつもりか』そう大声で喚きたてる。残業と言う盾にならないものを盾にして主導権を得ようとしたせいだったが、労働者を兵糧攻めにしていると訴えかける労組の声は、マスコミから意外なほどの声援を送られることになった。SSKの労使紛争で、常に仕掛けているのは労組側だった。しかし、ストが長期化するとマスコミはこぞって労働者側の窮状を人々に訴え、その窮状の内容を取材しようとはしなかった。
坪内翁が『忍』の一字をこよなく愛した理由
坪内翁の言葉で説明すると。
『三条件を呑まされて、それが本当に実施されると、組合員の生活が目にみえて悪くなった。これではたまらんとストを打った。組合はマスコミにそう言うとる。組合員の賃金は生活保護世帯なみになったと。マスコミはその通り報道するんじゃが、生活保護世帯なみの賃金いう中身を調べようとはせんじゃった。ところが組合員は、米・味噌・醤油から酒などもみな、組合が運営する購買会から買っとるんじゃ。組合は組合員に何でも売りよったぞ。テーブルから椅子、タンス、何でもじゃ。生命保険も住宅も扱うとった。それがみんな給料引きじゃ。天引きした残りは確かに生活保護世帯なみの金額じゃったろう。それを調べもせんと、組合の言うとおりに伝えとる。
ワシは、こないなことしとったら、マスコミは最後に恥をかくぞ思うたわい。じゃからワシの方からはいっさい弁解せなんだ。しまいにはワシに出てきて喋れ、言うマスコミの人もおったが』海軍工廠時代から、佐世保は給料で精算する、月末ツケ払いが存在していたのだ。『賃金を15%カット言うと、たしかに聞いた人はひどいと思うかもしれん。じゃがそれは、倒産をさせんために、賃金をはじめ何もかも差し出した来島ドックなみにしただけじゃ。助けられる側が助ける側よりええ給料をもらっとったら、助ける側は嫌になろうが、じゃから15%カットは最初から条件にしとった。それでのうては来島のもんがワシについてこんわい。SSKを助けるのは、ワシ一人ではないんじゃ。来島の者が承知してくれよったから出来たことなんじゃ。来島の者は、週に2日休ませ言わなんだし、残業も働けば儲かる言うて、喜んでしょったぞ。残業は仕事がそれだけ多い言うことじゃが。仕事を取るのに汗流しとるもんも仲間じゃが。残業嫌がるもんは、来島にはおらなんだぞ』来島はSSKより小さいだけに、坪内翁の意識革命が浸透していたのであるが、SSKにもその意識を植え付けようと懸命に教育をはじめた。
歴史と人物に学ぶほど
生きた学問はない!
安岡正篤先生の言葉