歴史と人物に学ぶ  NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ㉑」  著:野見山 登

経営雑感
坪内壽夫翁の経営発想法

坪内壽夫翁の人生は、決して順風満帆ではない。成長の過程において、常に、その前には障壁があった。翁は、その都度、自分自身でよく考え、それを実行にうつし耐え抜き、拓いてこられた。世の中には、自分の置かれた環境を悲観し、努力もしないで挫折してしまう人間が多いが、しかし、翁の話を聞けば、恵まれないほど、伸びる幅が大きいことが良くわかり、翁が実践された偉業のスケールの違いは、自分自身や自分の企業に置き変え考査すれば、ヒントが沢山あるように思います。

坪内翁と大自然にそびえる本物の金閣寺

ホテル奥道後の横の清流(石手川)を少し上ると黄金の金閣寺がそびえていた。京都の消失前の金閣寺と寸分と違わない楠の天井一枚板の金閣寺である。
この金閣寺は坪内翁が、大恩ある今東光先生の実弟当時の文化庁長官であった今日出海氏に本物の金閣寺がなくなり、焼失前の本物の金閣寺を大自然の豊かなホテル奥道後の奥地で“伝説のある清流、湧ケ淵”の畔に建立して頂きたいと懇願され、文化庁より設計図をお借りし金六十貫目13cm角の金箔95000枚を用いて、昭和35年9月に着工し、昭和41年10月に復元されました。荘厳華麗さはゆうにおよばず、足利の昔が今に現前している。大岩の這渓谷伝説のある清流、湧ヶ淵といい四国金閣寺の名に恥じない建物であった。私は、25年前に坪内翁とこの金閣寺の最上階(3階)の金箔の中で会食をして頂いたことがある。タバコも吸えずトイレもなく大変であったが、足利の殿様になった気分になった。この時の坪内翁のお話は、柴田錬三郎先生の紹介で今東光先生と出会い、今先生との懐かしい思い出のお話を拝聴させて頂きました。
『経営も戦争と一緒だ!ナポレオンは戦いの名手であったが、退却という二文字を知らなかった。だから、ロシアの冬将軍にやられて敗北した。人間は退くことを知らなければならない。戦争も経営も一緒だ。2割退却すれば倒産は免れる』と、今東光先生が教えてくれたアドバイスであると、懐かしそうにお話をされた。奥道後を訪ねた今東先生は、酔っ払って芸妓に大きな灰皿と墨汁・大筆を持ってこさせ“大書”を書かれた。現在もホテル奥道後離れの坪中川亭の2階に屏風として保存されている。
また、奥道後観光バスの横に書かれている『奥道後』の大きな文字も今東光先生が書かれた文字です。
今東光先生の13回忌法要に坪内翁は、この芸妓を伴い法要に参列しました。人目を避けて手を合わす芸妓の姿には、翁の心を動かすものがあったそうです。
その後、平成10年4月5日ハガキ道の坂田道信先生と、私の中学校時代の同窓生を誘い森信三著書“修身教授録”の読書会をこの金閣寺の黄金の中で開催し大好評であった。残念ながら、この金閣寺は平成13年6月、愛媛県を襲った集中豪雨で裏山の土砂と共に石手川に流失してしまいました。(坪内翁没1年後であった)流出した翌日、私は松山市に飛び、整理の陣頭指揮をとったが、石手川の下流で松山市の心ない市民に流失した金箔の壁面・楠の一枚板は勿論、檜の大木にいたるまで夜中にクレーン車が来て拾い集められたらしく行方不明であった。しかし、一部市民の方が金閣寺の屋根の上にあった3m位の大きな鯱を回収され、わざわざトラックで届けて下さった方もおられた。この方には丁重にご挨拶をし、ホテル奥道後の食事券と温泉入浴券1年分を差し上げた。又、石手川の河口の漁民からは、金閣寺以外の流木も含め、すべて回収するようにと苦情が殺到し大変であったが、1軒1軒お邪魔させて頂きお詫びすると共に松山市役所に出向き市に協力要請をし、お陰で松山市が回収し解決した。私は“我今、坪内翁なら何を為すべきか!”社長以下幹部社員に身を持って教えた。
歴史と人物に学ぶほど
生きた学問はない!

安岡正篤先生の言葉
次号もお楽しみに!

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