歴史と人物に学ぶ  NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ㉘」著:野見山 登

私は、坪内翁との御縁で政財界をはじめ芸能界・スポーツ界の著名人の方々とも御縁を賜りましたが、プロゴルファー青木功氏との御縁と坪内翁との関係で出会いお付き合いを賜っています。平成7年11月坪内翁から電話があり『プロゴルファーの青木が来るんじゃが、一緒に食事をするぞ』と、ありがたい電話を頂き、即答し松山の奥道後ゴルフ場ではじめてお会いしました。精悍な顔つきではあるが、物腰も柔らかで言葉遣いもやさしく、テレビや写真で見るのとは全く異なり、さすが世界を制するプロゴルファーだなぁ~というのが第一印象であった。この日は、親父さん(坪内翁を親父さんと慕っていた)に会う為と、東京よりクラブを整備する車輛とダンロップのスタッフ6名と共に同伴、新しいクラブとゴルフボールの試打の為に奥道後ゴルフ倶楽部にやってきたとのことであった。試打を繰り返しながら調整する車輛に乗り込みスタッフに丁寧な言葉遣いで微調整を依頼していたが、青木プロは『野見山先生も中に入ってみてもいいですよ』と声をかけて下さり、はじめてゴルフクラブを調整する場面を拝見させていただきました。ダンロップのスタッフに対しても『○○ちゃん、○○ちゃん』と呼ばれており、全く高い目線でモノをいわず感銘しました。楽しみにしていた夕食会はホテル奥道後の離れ『坪中川亭』で会食をしながらお話をさせていただきましたが、いつものように坪内翁に青木プロとの出会いについて質問をさせて頂きました。以下、当時の対話の内容を思い出しながら述べます。坪内翁とプロゴルファー青木功氏との縁は、スランプに陥った青木プロが、四国まで足を伸ばしゴルフをほとんど知らない坪内翁に何を求めて瀬戸内海を渡ったのか。坪内翁と出会った当時、青木プロは世界を目指し度々海外遠征に挑戦しながらなかなか優勝できず、スランプに喘いでいたそうです。ゴルフ・ジャーナリズムは冷たいもので、あれほどチヤホヤしていたのに『もう青木の時代は終わった』と、はやし立てていた。昭和57年春、TPCからマスターズにかけて、予選落ちを繰り返していた。青木プロが坪内翁を尋ねたのは、その年の秋だったとのこと。坪内翁は『好きなように練習をすればいいがな』と、ぶっきらぼうに言われたそうです。青木プロは、ワシントンヤシやアメリカデーゴの木など、まるでハワイにいるようなコースで気が済むまでクラブを振った。坪内翁は、夜になると青木プロの為に夕食の席を毎日のように用意され、経営者としては異端児、債権の神様と呼ばれた巨漢坪内翁と、ゴルフ界の風雲児と呼ばれた青木プロの二人は、膝を交え酒を飲み交わされたそうです。青木プロは海外で勝負に勝つことの難しさを訴えたが、坪内翁は笑って応えてくれず『まぁ~飲め』と云って酒を注ぐだけであったとのこと。そんな日々が、4日、5日と経過するうちに、坪内翁は経営者としての考え方、生き方を交え、我慢、根性、無欲、集中力などについて話されたとのこと。この話をヒントに青木プロは迷いを断ち切り、そのままハワイに直行しハワイアンオープンで優勝した。それ以来、青木プロと坪内翁の親交がはじまり、青木プロはスランプに陥るたびに坪内翁を訪ね自信を取り戻されたとのこと。その後、青木プロはこの話を大リーガーのピート・ローズに話され『武士道精神』学びにピート・ローズ氏も坪内翁を訪ねて来られたとのこと。

歴史と人物に学ぶほど
生きた学問はない!

安岡正篤先生の言葉

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