青木プロについての裏話
平成12年12月28日、坪内翁は85歳の生涯を閉じたが、翁の通夜の枕元で『親父!なんでもう一度、俺の優勝を見てくれなかったんだょ~』と、涙いっぱいの青木プロの姿があった。私の横に座っていた新来島ドックのオーナー石水氏(坪内奥様の妹の夫)は、青木プロに『青木そんなに泣いたって死んだものは生き返らせんぞ!』と、失礼な物言いで諫めていた。私は、やっぱり翁を裏切った張本人らしい言い方しかできない人間オンチなオッサンや・・・と思い、青木プロに『青木さん、ものの言い方も知らぬオッサンを相手にせず外に出ましょう』と、玄関前のテントの中で焚き火を囲み翁との思い出話をしました。ほどなく鳥羽一郎さんも来られましたが、同様にご焼香が終わりテントの中に入って来られ、NHKの紅白歌合戦のリハーサルの件をお尋ねすると『マネージャーに都合よくやっておいてくれるよう頼み、こっそり抜け出してきた』とのことであった。私は、それぞれの業界の一流のプロは、本当に義理人情や絆を心得ているのだと、あらためて勉強させられました。翌日の密葬の日にも翁の棺に手を添える青木プロの目には大粒の涙でいっぱい、声を上げて泣いていた。その時の青木プロは、あの獲物を見つめる黒豹のような精悍な面影はまったくなく、ただ信頼できる親父を失った男の悲しみ溢れる姿であった。又、この時もマスコミが大勢押しかけて大変であったが、某テレビ局は祭壇の前まで来て脚立に登り棺の中に眠る坪内翁の死に顔と青木プロが涙している姿にスポットライトを照らし撮影していた。あまりの態度に私はおもわず大声で『お前ら、ええ加減にせんかい、青木プロは勿論、ご親族や参列者のことも考えんかい!何処のテレビ局や、この映像を放映したらタダでは済まさんぞ~!』と怒鳴った。参列者は何処のヤクザかと思ったのか一瞬シーンと静まり返り、参列者の中から一呼吸置いて『南海放送じゃが』と言っていた。私は、我慢できず葬儀が終了してから青木プロを空港に見送りがてら松山市内の南海放送局まで行き厳しく抗議をした。対応した南海放送報道局の社員は『大変失礼をお詫び申します。私共の下請けのカメラ会社の社員が撮影したらしく、厳重に注意します』との言い訳であったが、とりあえず一件落着しました。“厚かましさと熱心さは紙一重”行き過ぎた報道カメラマンのプロ意識にもビックリすると同時にいい体験をしました。その後、翁の13回忌法要まで、青木プロは、毎年12月28日の命日前後に坪内翁の墓前にお参りに来られていた。私も何度か同伴させて頂きましたが、青木プロは墓前に正座をしてお参りをされていました。奥道後の矢野専務の話によると『多くの方がお参りに来られますが、墓前に正座をしてお参りされる方は、青木プロと野見山先生のお二人です』とのこと。私は、大恩ある方の墓前で当たり前のことをしているだけですが・・・。
青木プロから頂いた我が家の宝物
平成19年11月、私は、熊本で開催された第17回シニアーオープンの最終日応援に行ったが見事優勝され、青木プロが、明日松山の坪内翁の墓前に報告に行くと言うので、“常に我、今何を為すべきか自問自答せよ”(私共の研修会で常々指導している言葉)にプラスし『我、今坪内翁ならば何を為すべきか』と、前にも述べている奥道後の矢野専務に電話を入れ、ホテル奥道後で、青木功プロの優勝祝賀会をするように指示、交流のあった財政界の方々を始め、奥道後ゴルフ場のお客様への電話での御案内を含め、会費2万円200~300人緊急招聘して頂きたいと連絡をした。(祝賀会での売上550万円であった)翌日、私は松山空港に到着後、坪内翁の墓前に報告し、ホテル奥道後に行くと玄関前に“プロゴルファー青木功優勝記念祝賀会”の横断幕も張られ準備万端、歓迎ムードでお迎えの準備も出来ていた。夕刻、青木プロが到着され祝賀会では、当時の加戸愛媛県知事、中村松山市長(現/愛媛県知事)をはじめ数々の著名人の方々のお祝いの言葉の後、青木プロのあいさつそして突然私を舞台に招き『坪内翁没後も自分以上に野見山先生は翁のことを想っておられる方です。今日のこの祝賀会も急遽開催して頂き感謝の気持ちでいっぱいです。皆様の前で恐縮ですが、自分からの御礼の品をプレゼントさせて頂きます』と、青木功のネーム入りのパターを頂戴しました。現在、私の事務所に宝物として飾っています。(一度も使用していませんが…)青木プロは30数年前に始めて瀬戸内海を渡り坪内翁とゴルフの話ではなく、経営者としての考え方、生き方を交え、我慢・根性・無欲・集中力などについて話を聴き、迷いを断ち切り、そのままハワイに直行しハワイアンオープンで優勝された。武士道と人間愛、プロゴルファー青木功氏と亡き坪内翁の絆は、強い糸でつながっている。