坪内翁に長生きをして頂く会
全国大会を開催
私は、平成5年より2ヶ月に1回『坪内翁に長生きをして頂く会』と云う名称で全国の経営者を毎回少数のみ同伴、坪内翁のお話を会食代実費のみでお聴きする会を開催していた。平成9年、坪内翁は83歳の秋頃より度々肺炎を患うことが多くなり、面会謝絶の日々が度々あり、私は翁が85歳になられた時に、『坪内翁85歳の誕生日』を計画していので、後に記載しますが、親しくお付き合いを賜っていた翁の主治医南松山病院尾崎光泰理事長先生に坪内翁の状況を詳細にお聴きしましたところ『過去に肺癌で右肺を全適していることと、年齢的にも厳しくいつどんな状況になるか油断はできない』と言うことであった。その為、翌年平成10年9月4日“坪内翁85歳の誕生会”を一年早め84歳で開催しました。6月に鳥羽一郎さんが唄う『来島海峡』と『愛をみんなで』が日本クラウンより発売され、私は坪内翁の誕生会の開催計画案と歌の発売の祝いを兼ねお見舞いに翁をお尋ねしたが、今治市が今治市民会館で『しまなみ海道開通記念、鳥羽一郎ショー』を概算予算1000万円かけて計画。今治市長と一部の県議と市議を含め実行委員会を結成し有志が坪内翁を訪ねて来られており、今治市に予算がなく坪内翁に500万円寄付して頂きたいと言う、虫のいい話があり坪内翁は困惑していた。
翁は、いつもの調子で『野見山先生どうするぞ!!』と私に投げてこられた。私もいつものように『お断りしたら』と言い。そして即『発売記念コンサートは、ホテル奥道後で、坪内翁の誕生会に合わせ、私が日本クラウンと鳥羽一郎さんに交渉し無償で来て頂き開催しますので御安心下さい』と申し上げ、さらに『元々来島ドックは、今治市の隣の大西町にあり、30数年前“尾道市~今治市を結ぶ民営架橋計画”を当時の白石愛媛県知事と各市長会で反対され頓挫した経験があり、長い歳月と国の膨大な建設費用をかけてやっと開通した途端、開通記念発表会を開催するので坪内翁に費用を出してもらいたいとは、少々おかしくないですか?』と、言わせて頂いた。そして、今治市長他同席者の目の前で、鳥羽一郎さんに電話を入れ『坪内翁の誕生会を兼ねホテル奥道後で発売記念発表会を実施するので協力をして頂きたく、私が近日中に東京に相談に行くのでよろしく』と、連絡を入れた。
今治市長他同席者は残念ですと言い渋々お帰りになられた。後日今治市の友人により入った情報によると、実行委員会まで立ち上げ坪内翁への寄付の依頼に対し、私の『お断りをしたら』の一言でダメになったと、私に対して相当な恨みをかっていたとのことだ。坪内翁はニコニコ笑顔で『いずれやらなきゃいかんごとじゃが、野見山先生にお任せします。お金が必要じゃったら何ぼでも言ってくれ』とも言われた。勿論、翁に負担はかけずに開催した。私は、7月初旬東京の日本クラウン本社に行き、当時の斉藤登会長、田中常務と面談し今治市長他同席者の『虫のいい話を』報告させて頂き協力要請をした。会長も常務も快諾して下さり『鳥羽一郎は勿論、星野哲郎先生、岡千秋先生共々行きます』との返事をいただいた。夕刻、鳥羽一郎さんとも面談、夕食をご馳走になりながら「鳥羽一郎さんの長女比紗花ちゃんの名づけ親の誕生会を兼ね、家族全員で奥道後の温泉にご招待する』と言う大義名分の下、出演料なしで快諾して頂くことになりました。
私はその後、イエローハットの創業者鍵山秀三郎様、はがき道の坂田道信先生、伊勢修養団の中山靖雄先生をはじめ『一隅を照らし』全国で活動をされ集客に影響力のある諸先生方に呼びかけをさせて頂き、平成10年9月4日、坪内翁の84歳の誕生日にあわせ千百数十名の参加者を集い開催した。参加者の皆様からの浄財(会費1万円ディナー代を含む)でホテル奥道後の遊園地に、高さ5m幅6mの大島御影石で“縁は人生の宝”の石碑(私の直筆)と、星野哲郎先生・岡千秋先生・鳥羽一郎さんをはじめ“一隅を照らし”全国で活動しておられる諸先生方の直筆氏名を書かれた石碑を建立し、神事の後に除幕式を開催した。
石碑建立の挨拶文
翁ますますお元気で、望まれるのはこの国の民の幸せばかり。享保の大飢饉で我が身を捨て民を救った、故郷伊予郡松前町の偉人、義農作兵衛の精神を今なお実践し続けている。会社再建王としてその名を馳せる翁だが、愛を失い、道にはぐれた人々を救い励まし続ける慈愛の姿はあまり世に知られていない。一隅を照らす先生方が、不思議な糸にひかれ翁の生き様に共感、絶賛された。まさに『縁は人生の宝』である。翁の愛するこの奥道後の地で『坪内壽夫翁に長生きをして頂く会』が開催された。主催者を代表して心よりお礼申し上げます。
* 石碑に私の名前や実行委員会の皆さんから何度も入れろと言われましたが、石碑の価値が下がるので入れていません。
その後の坪内翁の講演会は、ドクターストップの中、こっそり病院を抜け出して出演して下さり、短時間であったが『塀のない刑務所、更生保護事業やはじめ佐世保重工業の再建』等、坪内翁の足跡の実話を自らお話して下さいました。講演会終了間際に、無断外出が南松山病院の尾崎院長先生に知れ、院長先生自ら病院の救急車に同乗し駆けつけられ楽屋裏で私は大目玉をくらったが無事に終了した。
歴史と人物に学ぶほど
生きた学問はない!
安岡正篤先生の言葉