歴史と人物に学ぶ  NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ㉞」 著:野見山 登

義理と人情の絆、南松山病院
尾崎院長と坪内翁の絆

晩年の坪内翁は、松山市の南松山病院の屋上にある尾崎院長先生の元住まいに住んでいた。
翁が肺がんの摘出手術を受けた際、尾崎院長先生は、大恩ある坪内翁の為に自分は病院の近くの民間アパートに家族と共に移転し自分の部屋を開放された。以来、坪内翁は24時間体制で南松山病院の職員さん達に見守られ晩年を過ごされていた。翁が亡き後も坪内奥様が平成13年9月96歳で亡くなるまで住まわれていた。
南松山病院は50年位前、現・理事長の尾崎光泰氏が当時は畑とあぜ道しかない場所、現在の松山市朝生田町に総合病院を建設する計画で銀行に借り入れの申し込みをしたが、銀行から「あんな田舎に建ててもダメ」と融資を拒否された。
尾崎氏は知人を頼り坪内翁に相談したところ「あの地域は10年もすると必ず大きな住宅地になるから建てたらええが、資金は幾ら要るんじゃ」と言われ尾崎氏は「5億円位あればできます」と言うと、坪内翁は8億円出し「返済はいつでもいい、その代わり他の病院にない徹底した差別化をした病院経営をしなさい」と、建設の段階から数々のアドバイスをされ、総合病院として南松山病院は開業されたそうである。(この話は、坪内翁生前にも又、尾崎院長にも聞いていた)尾崎院長先生は、わずか5年で借り入れを全額返済されたとのこと。しかし、下記に記載している日曜日に営業・営業時間午前8時~午後9時までの関係等々で医師会からは大反発をくらった経緯も数多くあったそうです。
後に、日本赤十字社の赤字1500億円の問題で、衆議院議員徳田虎雄氏が坪内翁を訪ねた折に話題となり、全国各地域での救急医療体制の見直しや病院の開院時間、休診日、等の自由化に波及したのです。
(当時、日曜祭日の休日急患センターはなかった時代)

病院経営で坪内翁が提言された事柄

①水曜日を休診日とし、日曜日は営業をしなさい。

病気の方は、日曜日は他の病院が休みなので、困り、必ずこちらの病院に来られる。

②サラリーマンが会社を休まずに済むので日曜日に健康診断に来院される。

③待合室は中庭に面し自然光を取り入れ、樹木を植え患者さんにやすらぎを与えること。

④日曜日に各大学病院の医師に特別診察日として来て頂き診察をして頂く。
大学病院の医師には、土曜日に無料で奥道後ゴルフ場でゴルフを楽しみ、ホテル奥道後で温泉に入り寛いで頂く。尾崎院長先生は岡山大学医学部の出身で、岡山大の後輩の医師が毎週訪れていたとのこと。

⑤医療機器は、最新鋭の何処にも入っていない機器をテストにと、安く購入しなさい。
現在も人工透析の機器20台常設、20人の患者さんが同時に透析を受けている。

⑥MR断層レントゲン機器も他の病院より数年早く導入した。

⑦毎月、病院の職員さんの誕生会を実施し、職員に働きがいを与えなさい。現在も毎月その月の誕生日の方の誕生会を開催されている。

⑧入院患者さんの誕生日には、必ず花一輪を枕元に差し上げなさい。

⑨来院の患者さんは、病院経営にとってお客様である“患者様”と呼びなさい。その他。
坪内翁は、晩年この病院の屋上の院長先生の元住まいに晩年15年間を過ごされていたが、ある時、お尋ねした折に坪内翁が「ここの院長先生は義理がたい人で、ワシら夫婦をタダで住まわせてくれ、医療費も食事もすべてタダ!恩返しをせねばと思っとる。ついては、持田町の家を差し上げようと思うが、野見山先生どうじゃろうか」と相談をされた。私は勿論、翁の相談に賛成させて頂きましたが、翁はその場で即、奥道後グループの後継者と尾崎院長を部屋に呼び登記簿謄本・印鑑証明も添えて尾崎院長に差し上げた。
尾崎院長先生は、毎晩病院の診察を終えた後、坪内翁の住まいへ診察に来て、診察後に病院経営について坪内翁のアドバイスを受けておられた。尾崎院長先生は、私に「野見山先生にお聴きするとコンサルタント料がいるが、坪内翁からのアドバイスはお金が要らないので助かります」と、よく冗談を言われていた。平成11年12月29日 南松山病院で坪内翁は亡くなったが、この日の朝は久しぶりに気分もよく、坪内奥様や永年お手伝いをされていた方々に「長い間世話になったの~ありがとうよ」と御礼を言われ、日本の国をも動かし会社再建王とも呼ばれた超ワンマン経営者坪内壽夫翁の臨終の言葉であった。

歴史と人物に学ぶほど
生きた学問はない!

安岡正篤先生の言葉

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