歴史と人物に学ぶ  NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ㊱」  著:野見山 登

義理と人情の絆 南松山病院の尾崎院長と坪内翁の絆≪続編≫

坪内翁のお別れ会は、年明けに(平成12年2月)ホテル奥道後の錦晴の間(1500人収容のホール)でおこなわれましたが、白の菊の花4万本を使い海の波をイメージのデザインとの違いで議論を交わしながら陣頭指揮をとりましたが、当時の奥道後観光グループ矢野専務と広告代理店のスタッフ共々、坪内翁の生涯の映像“果てしなき夢”の制作も翁の古い写真をベースに同時進行で制作した。
2日間徹夜の状態で映像ができあがり、今でも当時のスタッフの皆さんに感謝しています。又、この本葬式での弔辞を読まれた南松山病院の尾崎院長先生は、『坪内翁に8億円を借り入れした事や、病院経営についてのアドバイスの事などの御礼と、同時に坪内奥様は、我々南松山病院の職員一同でお守りいたしますのでご安心して下さい』と、涙声で弔辞を読まれました。そして、坪内翁の80歳の誕生祝に坪内翁をモデルに日本クラウンが制作した歌『翁』を鳥羽一郎さんが歌い『果てしない夢』の映像と、6千名の参列者の涙のお別れ会をおこなった。1千5百名収容の大ホールに祭壇を設けたが、大ホールから4百メートルあるホテル玄関まで長蛇の参列者であった。事前に多くの参列者を予測しホテル玄関やロビー、喫茶コーナーをはじめ大ホールでのお別れ会の映像を各所に流し対応した。
余談な話しですが、この時の社葬費用は約5千万円かかった。ホテル奥道後1千万円、奥道後ゴルフクラブ5百万円、奥道後観光バス5百万円、温泉の利権会社奥道後温泉開発1千万円、佐世保重工1千万円、坪内奥様にも5百万円御負担して頂き、残り5百万円は葬儀社に月賦で支払うようにした。(2年後に完済)
新来島ドックからも申し出があったが、過去に諸事情があり矢野専務を通じ丁重にお断りをして頂いた。(勿論、一般の方々にも香典やお生花は、一切お断りをさせて頂いた)その後、南松山病院の尾崎院長先生は、坪内奥様をお約束通り南松山病院の屋上の住まいで面倒を見られ、坪内奥様は翁の仏壇と共に余生を過ごされました。平成22年、南松山病院は、同敷地内に新しく7階建てを新築され新築披露に、私はご招待されお邪魔しましたが、7階の松山城が直に見える明るく広い部屋を特別に坪内奥様の為に造られていた。居間は20畳・仏間の座敷10畳・坪内奥様の寝室10畳・台所10畳の豪邸で、隣接の部屋を看護婦長室にされ看護総婦長、各病棟の婦長さんに24時間体制で坪内奥様の面倒を観られていました。
平成25年9月、坪内奥様が96歳で永眠された。私は北九州から通夜のお経が終わった頃に松山市の南松山病院に到着し、お参りしましたが、同席していた矢野専務と元・奥道後ゴルフクラブの二宮総支配人にお願いし、お棺を開けて頂き『坪内奥様、長い間お疲れ様でした。翁がおられる天国へ行く三途の川を渡る時のお金です』と、私の香典袋を開け矢野専務に確認させて、お棺の中の奥様の胸の上にそっと置いた。又、尾崎理事長先生は『このお部屋は坪内奥様のお部屋ですから私の眼の黒い間は、亡き坪内翁のお仏壇と共にこのまま職員一同と共にお守りします。南松山病院の原点は坪内翁ご夫妻のお陰ですから・・・』と言って涙しておられました。その後も南松山病院の尾崎理事長先生は、坪内翁ご夫妻亡き後も坪内家のお世話されている。50年も前に総合病院建設の際に、快く融資をして頂き何かと助言して頂いたご恩を忘れることなく“義理と人情の絆”南松山病院尾崎院長と坪内翁の絆は強い糸でつながっているのです。

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