佐世保重工業(SSK)の再建
以前にも少し触れたが佐世保重工業再建の際、紀美江夫人は坪内翁に『浮気はいくらしてもいいから佐世保だけは引き受けないで』と懇願したという。
(坪内奥様生前に直接聞いたお話)1800億円という巨額の負債を抱え、倒産寸前の状況に追い込まれていた佐世保重工の再建は、当時放射能漏れ事故を起こした原子力船“むつ”の問題と絡んで、政治的救済劇ともいわれた。又、佐世保重工再建が坪内翁にまわってきた経緯には『政財界に利用された』という指摘もある。
佐世保重工の危機が表面化する前。昭和50年坪内翁は会長になる条件つきで、白洲次郎氏の依頼で、大洋漁業の資金難を救うため大株主であった大洋漁業の中部謙吉社長より佐世保重工発行株式の25%2250万株を譲り受け大株主となっていた。ところが、坪内翁は役員から“乗っ取り屋”扱いされた。そして、会長就任の話は白紙に戻され、経営権のない相談役に追いやられた。それだけの仕打ちをしておきながら、会社が傾くと経営陣は手のひらを返したように再建の役目を坪内翁に押しつけてきたのであった。しかし、83憶という1600人分の退職金を、個人の裁定で払えるような人物は財界にもいなかっただろう。しかも、会社を再建するには、それ以上の資金の投入が必要になる。
金融機関や取引企業は、一斉に佐世保重工の経営から手を引いてしまった。
1978年6月29日(S53年)51円という額面割れ寸前の佐世保重工業株を大量に所有する坪内翁は社長に就任する。『倒産して社員が路頭に迷ったらいかん』それが決断の最終的な理由であった。しかし、その社員が再建にとって最大の障害となる。
佐世保重工の労働組合は、過去の度重なるストライキの行使で、異常なまでに強大な権力を握っていた。例えば賃金であるが、倒産寸前の佐世保重工の社員の給料は、どこの造船会社よりも高かった。坪内翁は、佐世保重工の賃金を来島ドックと同じベースにしようとした。再建を引き受ける最後の話し合いで労組委員長をはじめ労組幹部にも約束させた。ところが労組の幹部は約束を破ったのである。得意のストを張り、従来の高い給料を守ろうとした。
このストは196日間に及んだ。その間、坪内翁の自宅には、執拗なイヤがらせが続いた。坪内翁はニコニコと笑顔で私に話されていたが『カエルやヘビを放り込むヤツもおった。ワシのワラ人形をつくって火をつける者もいたぞな』と言われていた。紀美江夫人が『佐世保だけは・・・』といった理由もよくわかる。坪内翁は『そんなんでワシが参ると思ったんじゃろ・・・』坪内翁は参らなかった。音を上げたのは労組幹部だった。会社が潰れれば社員は路頭に迷う。坪内翁の再建計画と、労働組合のストと今の会社にはどっちが必要か?
簡単なことがようやく社員に理解され、1982年12月(S57年)佐世保重工は債務を完済。坪内翁は4年数カ月で再建を果たされた。昭和50年坪内翁が51円で引き取った佐世保重工株は、1180円の値をつけていた。再建に着手したとき、坪内翁は個人で2250万株を取得していたのでポケットには、また憶の金が入った。赤字会社の株を底値で買い取り再建に挑む。成功すれば株価は上がる。これが坪内翁のケタはずれのポケットマネーである。だが坪内翁は笑いながら『何ぼ儲けても税金で持っていかれる』と言われていたが・・・。
歴史と人物に学ぶほど生きた学問はない! 安岡正篤先生の言葉