経営雑感 坪内壽御夫翁の経営発想法
歴史と人物に学ぶ“会社再建王”坪内壽夫翁を取り上げてきて、いよいよ終盤に近付いてまいりましたが、昭和53年坪内翁が佐世保重工業の社長に就任した早々に組合がストに突入した。そのころ、私は家具の大型専門店でのサラリーマンでしたが、胆石を患い手術、1ヶ月半入院生活をしていました。(今の時代、胆石はレーダー治療ですが・・・)
病床で佐世保重工業のニュースをテレビ・新聞・週刊誌を見て『坪内社長という人は、非情な経営者』という認識しかありませんでした。
その後に九州生産性本部主催の『来島ドック見学と坪内社長の度胸の経営』と題したセミナーに参加し、来島ドックの工場視察で造船所での輪切り建造法(現/ブロック建造法)など、当時他の造船所では考えられなかった造船技術や塀のない刑務所の視察。そして坪内社長のナマの声で、佐世保重工業での196日間に及んだストの全容など拝聴しました。
1カ月半入院中にテレビや新聞・週刊誌で得ていた知識と相当かけ離れていたことに気づき感動・感銘をしました。
スト解決のお話は、組合側が『会社が潰れるか、潰れないかの瀬戸際で、坪内社長が三条件を呑まなければ重大決意をすると言い、組合側も呑まざるを得なかった。又、組合の行き過ぎたストで嫌気がさした人の退職者が1400名と続出したのでこれではたまらん・・・』ということが、主な理由であったようである。私は、27年前にNSP野見山経営研究所を設立し“縁は人生の宝”縁あって晩年の坪内翁と出会いを賜り毎月お邪魔させて頂きました。
坪内翁は、1800億円もの累積赤字を抱えていた佐世保重工業を、わずか4年数カ月で再建された。当時、この快挙をマスコミはこぞって『奇跡』と形容していたが、坪内翁は『ワシは普通に経営してだけじゃが』と言われていた。
年間売上高約5千億円、180数社の来島グループを一代で築き上げた坪内流経営の真髄を、ナマの声で数多く聞かせて頂いたが、坪内翁から会社再建のお話をじっくり聞いた私の眼から見れば、当時のマスコミの報道は、坪内翁の人間性、坪内流経営の真髄を50%~60%位しか伝えていないように思える。
坪内翁没後十数年たった今でも坪内翁の生き方に、人一倍共鳴する私としては、残念でならない。坪内翁の“会社再建”はもちろん“真の魅力”を出来るだけ多くの方々に伝えたく思う次第です。
坪内翁が佐世保重工の社長に就任した直後に起きた日本初の原子力船≪むつ≫の佐世保入港の事件
坪内翁の半世紀は隠された戦後50年史の証言でもある。
試験航行中に放射能漏れ事故を起こし問題になり、どこの港からも入港拒否をされ、佐世保港へ突然入港してしまい、佐世保の労働組合や市民団体が反対運動に立ち上がった。
この問題をきっかけに、坪内翁は、造船や海運などの事業から関係のない人々にもよく知られるようになったが、大雑把で誤りに満ちた内容で坪内翁が受けた誤解の細部を明らかにすることで理解して頂こう。
作家の半村良先生が『億単位の男』の著書を書かれる際、3度ほどホテル奥道後に来られ坪内翁の取材をされましたが、私は運よく3度とも同席させて頂く機会に恵まれ、佐世保の≪むつ≫入港のいきさつを直接お聞きしました。
『ワシはあの船など呼びゃあせん。だいいち、あの船は佐世保とは何の関係もありゃせん、佐世保重工業の経営がうまくいかんようになり希望退職者を募集したら1600人応募してきたんじゃが、それに支払う退職金がのうてモメはじめとった。
≪原子力船 むつ≫が入港を決めたんは、そんな最中じゃが、ワシがSSKの再建を引き受けたんはその後じゃ』SSKは≪原子力船むつ≫とは関係ないと坪内翁は言われた。
日本初の≪原子力船むつ≫は、1963年(S38年)8月、日本原子力船開発事業団が設立され、同じ年の10月に、内閣総理大臣と運輸大臣が、原子力船開発基本計画を決定。その後、1968年(S43年)石川島播磨重工業が船体部分を起工。その間に政府は、青森県むつ市の下北埠頭(大湊港)を原子力船の母港とすることに決め、地元に協力要請をした。これに対し地元では原子力船母港設置反対市民会議という組織が出来て、反対運動を開始した。しかし、当時の青森県知事や、むつ市市長は、母港設置に同意する回答を政府に提出した。この原子力問題に関する市民反対、行政は賛成のパターンは長く続くことになる。
歴史と人物に学ぶほど
生きた学問はない!
安岡正篤先生の言葉