歴史と人物に学ぶ  NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ㉔」  著:野見山 登

不振続きの三菱自動車の意識改革

人は一生のうち逢える人には必ず逢える!人は出会いによって大きく変わる。人は優れた人と出会うことによって、自分では想像しなかったレベルに引き上げられていく。人は一生のうち逢うべき人には、必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に!
と、いう言葉がありますが、いつものように坪内翁とホテル奥道後の離れ“坪中川亭”で会食をしている時に、坪中川亭の女将さんの案内で、浴衣姿の男性が入ってこられた。何方かなと思っていると、翁がご紹介して下さったのが、元/三菱重工の末永社長であった。松山市に仕事の都合で来松しホテル奥道後にお泊りになり、『ホテルマンに坪内翁はご健在ですか』とお尋ねしたら『本日、お見えになっています』との返事を頂き、ご挨拶だけさせて頂きたいと言うことで、ご案内されて来られたとのことであった。私にとっては、天下の三菱重工の元社長との偶然のありがたい出会いであった。急遽、女将の取り計らいで、席を儲けて頂き、この時は元/三菱重工社長末永氏と坪内翁との関係のお話を拝聴した。来島ドックのライバルでもある三菱重工とも親しくお付き合いのあった翁に畏敬の念をあらためて感じた。
以下、この時の坪内翁と末永社長とのお話を思い出しながら述べてみます。
三菱重工業の社長を務めた末永聡一郎氏は、三菱グループの実力者であったが、来島ドックが鋼材の使用量で三菱重工を抜きトップとなった時、業績を伸ばしている坪内翁を訪ねて来られた。天下の三菱が中小企業の来島ドックに学ぶことに、三菱グループの役員会では、かなりの反対があったが、末永氏は強引に押し切りお尋ねされたとのこと。昭和58年、来島ドックを見学した末永氏は『徹底した能率の追求、少数精鋭、現状打破、人事管理、等を知り、坪内翁の発想に驚かれた』そうです。
各部所ごとに電気使用量を管理することで仕事量がわかる方法や塀のない刑務所では、受刑者がひたむきに仕事に取組む姿を見られ、受刑者を信じ看守は一歩退き、その自治に任せたことで、受刑者は働く喜びを知っていった・・・。
坪内翁に感化された末永氏は、三菱重工の課長以上の管理職に、翁の著書を読ませると共に、坪内翁に三菱グループの幹部社員への講演を依頼されました。三菱銀行で開かれた講演会で、翁は『三菱グループで成功しているのは、三菱のマークのないキリンビールや明治生命だ。マークにあぐらをかくな!世間知らずで苦労知らず!うかうかしていると、我々のような田舎造船所に追い越され、三菱重工は危なくなる!』と、厳しい指摘をされたそうです。中には、中小企業の来島ドックに抜かれたことでプライドを傷つけられ、坪内翁を恨む幹部もいたそうです。
後に、キリンビールと明治安田の社長は坪内翁を訪ね『グループ内で、はじめて褒められました』と御礼を言われたそうです。
さらに末永氏は『意識改革をし、やる気を起こさせてくれ』と、三菱自動車の幹部教育を依頼されたとのこと。資金的なバックアップは充分にあるのに、三菱自動車がトヨタ自動車のように伸びないことが気がかりであったそうです。三菱自動車の幹部研修は、関西汽船のチャーター船でおこなわれた。『3泊4日の洋上研修は、世間から隔離され集中した教育ができ大変効果的であった』と、末永氏の談話。
この頃、翁は『アメリカでは大陸横断用の大型のレジャー用の車が多く走っている。日本もこれからレジャー産業が飛躍する。三菱自動車は他社に先駆けレジャー用の車の開発を考えよ!』と、提案された。さらに中近東に『油を削減して往復したんじゃ。三菱自動車も省エネトラックを開発したらええがな』と提案された。
これが、今一般的に当たり前となっているトラックの運転台の上に付けられた風防である。
この研修会で幹部社員は意識改革が実行でき、後の四輪駆動車パゼロの開発などを成功させ業績向上へとつながったとのこと。
同席していた私共に、末永氏は『生きた経営哲学だ。自分たちとは違い苦労した人だから、アイデアと痛いほど人情に機敏に通じた人だ』と、坪内翁を高く評価された。
元/三菱重工の末永社長とのありがたい出会いは、まさに
『縁は人生の宝』であった。

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