歴史と人物に学ぶ  NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ㉖」 著:野見山 登

経営雑感坪内壽夫翁の経営発想法

私は、坪内壽夫翁にお会いする度に数々の教訓を賜りましたが、会社再建においては常に数々の障壁を乗り越え、それを実行に移し、耐え抜き億単位のお金を使っていたようであるが、『忍』の一字をこよなく愛していた。よく言われていた言葉に『ワシは、金儲けしようとして働いたことは一度も無い』
『お金はあの世に持っていけるかい。あの世に行く時は裸じゃ。女房が楽な暮らしができりゃそれでいいんじゃ』と・・・。
坪内翁は、働く人を愛し、妻を愛し、郷土の偉人義農作兵衛の生きざまに自らを写し、滅私奉公の精神を貫き通し、ひたむきに昭和を駆け抜けた。
まさに昭和の偉人の一人ではないかと思う。

東邦相互銀行の債権と銀行経営 ①

以前記載いたしました神戸のオリエンタルホテルの再建は、退職金プラス寸志を出すと書いて退職者募集のチラシを配布しただけであるが応募者は結構いたらしい。この時に坪内翁は『寸志は会社に関係なく、坪内からの餞別です。と言うことで退職金の2倍位包んだかなぁ』と言われ、私が『個人でお金を出すのは立派だが、そのお金は何処から出てくるのかと、世間では不思議に思うでしょう』と言うと、坪内翁は『一生懸命真面目に働けば、充分基礎が作れるのじゃ、3億や5億あるんじゃないかの』と言われていた。又、『来島グループは、ワシと女房と株主は2人じゃった。株主が2人しかおらんかったら自由にお金は使えたんよ~』と、ニコニコしながらお話をされていた。そんな話の後『ワシは、倒産寸前の相互銀行も引き受け、10年で日本一の相互銀行にしたぞな』と言われ、愛媛県の東邦相互銀行のお話をはじめてお聞きしました。引き受けられたのは、昭和46年、行員1人当たりの預金高が、全国72の相互銀行の中で71位であったとのこと。それが10年後に行員1人当たりの預金高が全国1番になったと・・・。私は『どんな手を使って1番になられたのですか?』と、質問させて頂きました。坪内翁は、東邦相互銀行のオーナーとして乗り込んだとき全行員を一同に集め『見栄や虚栄をすて、泥まみれになれ!親方日の丸意識、つまらんプライドをかなぐり捨て、責任を重んじる人間であれ。それができぬ者は、できるまでやれ!特に管理職は、見栄や虚栄を捨て、業績向上のために率先垂範して泥まみれとなり、這いずり回れ、そうすれば必ずお客様のニーズがわかり、目標を達成することができる!』と言われたそうである。さらに『私が命ずる仕事に恥ずかしい仕事など無い。今までより多少カッコ悪いかも知れぬが、それをやり遂げることによってしか、カッコよくなる道はないのだ!』と、繰り返し協調、叱咤激励したとのこと。さらに『ボロ銀行にもかかわらず、社員の間には危機感もなく親方日の丸の意識と金融マンとしてのプライドや体裁をとりつくろっていた』と、言われた。しかし、不思議なもので、オリエンタルホテルの場合もそうだったけど、坪内翁が手がけるといとも簡単に数年で黒字になり再建してしまう。私は、坪内翁が言われる言葉で『率先垂範、現状打破、意識改革という言葉がありますが、東邦相互銀行の場合、具体的にどのようになされたのですか』と、再度お聞きしました。坪内翁のお話しによると『東邦相互銀行の前の社長はワンマンで派手で、会社を私物化しとるようなところがあり、社員にも人気がなく、行員が恥ずかしがるほどボロ銀行じゃったワイ。先ず手始めにやったのは、社長の秘書全廃じゃ、さらに車なし。ワシが手がけてからの社長はスクーターに乗っている。前の社長は、大きな外車クライスラーに乗って、ふんぞり返っとった。中小企業の相互銀行の社長が大きな車に乗ってふんぞり返えるからいかんのじゃと、再建する銀行じゃから、スクーターにせいと・・・。』私は、驚き『それで、社長は本当にスクーターで行っていたのですか?』とお尋ねすると、坪内翁は『勿論、行ったぞな。社長がスクーターで行くと、社員も得意先もみんなが恐縮するがゃ』さらに坪内翁は『ワシは銀行の経営はやったことがない。お金を借りた経験はぎょうさんあるがね。その経験が東邦相互銀行の再建には役立った』とのこと。

◆次号も東邦相互銀行の債権と銀行経営について取り上げます。

歴史と人物に学ぶほど生きた学問はない!

安岡正篤先生の言葉

シェアする

フォローする