50周年記念トラック納車(未完成・確認事項あり)

50周年記念トラック納車

今年50周年を迎えるに当たり、以前よりアニバーサリートラックを作りたい!という強い想いから、準備をすすめ、様々な意見やアドバイスを受けながら、デザインの作成を独自で考え、この度、5月の初旬に、待ちに待った、50周年記念トラックが納車されました!
このデザインは、社長が、自ら、夢トラの制作で培った技術をフル活用して、パワーポイントのみで作りあげ、様々な方面からかなりの高評価を得ることができ、50周年の弊社に相応しい、派手過ぎず想いを込めた仕様となりました。1台しかないレアなトラックですので、見かけたら、手を振ってあげて下さい!

 

ベトナム人実習生技能実習生2期生の採用面接を行いました

ベトナム人の技能実習生大安2期生の採用面接に、伊藤、大坪、光永の3名がベトナムの首都ハノイまで5月のゴールデンウィークが明けてから、出張してきてくれました。
今回、2期生ということで、1期生と一緒に仕事をしている中での、現場の声を聴き、以下の2点に採用の重点基準をおいて面接を行いました。
①お金を稼ぐ以外の日本に来る明確な目的を持っている。例えば、日本語を覚えてベトナムへ帰国後、日系企業に勤めるや、日本語の先生になることなど。
②明るく陽気で、自ら積極的にコミュニケーションを取ることができる。です。
この二つの基準は、会社が実習生に、ただ単純に労働力だけを求めているわけではないからです。 彼らに求めていることは、社内で積極的なコミュニケーションを片言でも、陽気に取ってくれることで、社風の向上の一助になって欲しいと考えています。また、最近の人々が忘れている、礼儀や仕事に対する姿勢を省みるキッカケになって欲しいという思いもあります。これは、実際に現地に赴き、日本語学校の生徒達の日本に対するキラキラした憧れの眼を見ると感じてくれると思います。今回、初めてベトナムへ行った、伊藤さんと大坪さんは、光永さんと共に実際に感じ取ってくれたようでした。最近のテレビでは、外国人実習生の悪い事ばかりが報道されています。そういった背景からか、1期生受け入れ時は、近所から激しい反対を受けることもありました。しかしながら、そういった悪い事が起こっているのは、日本の受け入れ側にも大きな問題があるということが、実際に、彼らを受け入れてみて感じています。
ベトナムの方々は親日的です。日本に対する憧れもあります。彼らは、日本に来て、技能を学び日本語を学んで、祖国へ帰り、家族のために少しでも良い給料を得ようとして、日本に借金
をして来ています。弊社に入社している1期生は、日本に来るために、約30万円ほどの借金をしてきているようです。これを、一生懸命返済しつつ、家族の為に働いています。弊社で今、11万円ほどの手取りの給料のうち9万円以上をベトナムへ送金しています。弊社としては、マジメで勤勉なかれらが、問題を起こすことが無いように、実習生達と社員の交流を積極的に行っています。よく来てくれた!という状態を皆でつくっています。また、東九州ヒューマンサポート事業協同組合では、日本語能力の高い駐在員を常に常駐させくれているので、小さな疑問や問題をすぐに通訳して解決できる環境も整え働きやすい環境を整えています。
これからも、彼らだけに限らず、社員皆が働きやすい環境を作り続けます。

歴史と人物に学ぶ  NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ㊵」  著:野見山 登

経営雑感 坪内壽御夫翁の経営発想法

歴史と人物に学ぶ“会社再建王”坪内壽夫翁を取り上げてきて、いよいよ終盤に近付いてまいりましたが、昭和53年坪内翁が佐世保重工業の社長に就任した早々に組合がストに突入した。そのころ、私は家具の大型専門店でのサラリーマンでしたが、胆石を患い手術、1ヶ月半入院生活をしていました。(今の時代、胆石はレーダー治療ですが・・・)
病床で佐世保重工業のニュースをテレビ・新聞・週刊誌を見て『坪内社長という人は、非情な経営者』という認識しかありませんでした。
その後に九州生産性本部主催の『来島ドック見学と坪内社長の度胸の経営』と題したセミナーに参加し、来島ドックの工場視察で造船所での輪切り建造法(現/ブロック建造法)など、当時他の造船所では考えられなかった造船技術や塀のない刑務所の視察。そして坪内社長のナマの声で、佐世保重工業での196日間に及んだストの全容など拝聴しました。
1カ月半入院中にテレビや新聞・週刊誌で得ていた知識と相当かけ離れていたことに気づき感動・感銘をしました。
スト解決のお話は、組合側が『会社が潰れるか、潰れないかの瀬戸際で、坪内社長が三条件を呑まなければ重大決意をすると言い、組合側も呑まざるを得なかった。又、組合の行き過ぎたストで嫌気がさした人の退職者が1400名と続出したのでこれではたまらん・・・』ということが、主な理由であったようである。私は、27年前にNSP野見山経営研究所を設立し“縁は人生の宝”縁あって晩年の坪内翁と出会いを賜り毎月お邪魔させて頂きました。
坪内翁は、1800億円もの累積赤字を抱えていた佐世保重工業を、わずか4年数カ月で再建された。当時、この快挙をマスコミはこぞって『奇跡』と形容していたが、坪内翁は『ワシは普通に経営してだけじゃが』と言われていた。
年間売上高約5千億円、180数社の来島グループを一代で築き上げた坪内流経営の真髄を、ナマの声で数多く聞かせて頂いたが、坪内翁から会社再建のお話をじっくり聞いた私の眼から見れば、当時のマスコミの報道は、坪内翁の人間性、坪内流経営の真髄を50%~60%位しか伝えていないように思える。
坪内翁没後十数年たった今でも坪内翁の生き方に、人一倍共鳴する私としては、残念でならない。坪内翁の“会社再建”はもちろん“真の魅力”を出来るだけ多くの方々に伝えたく思う次第です。

 

坪内翁が佐世保重工の社長に就任した直後に起きた日本初の原子力船≪むつ≫の佐世保入港の事件

坪内翁の半世紀は隠された戦後50年史の証言でもある。
試験航行中に放射能漏れ事故を起こし問題になり、どこの港からも入港拒否をされ、佐世保港へ突然入港してしまい、佐世保の労働組合や市民団体が反対運動に立ち上がった。
この問題をきっかけに、坪内翁は、造船や海運などの事業から関係のない人々にもよく知られるようになったが、大雑把で誤りに満ちた内容で坪内翁が受けた誤解の細部を明らかにすることで理解して頂こう。
作家の半村良先生が『億単位の男』の著書を書かれる際、3度ほどホテル奥道後に来られ坪内翁の取材をされましたが、私は運よく3度とも同席させて頂く機会に恵まれ、佐世保の≪むつ≫入港のいきさつを直接お聞きしました。
『ワシはあの船など呼びゃあせん。だいいち、あの船は佐世保とは何の関係もありゃせん、佐世保重工業の経営がうまくいかんようになり希望退職者を募集したら1600人応募してきたんじゃが、それに支払う退職金がのうてモメはじめとった。
≪原子力船 むつ≫が入港を決めたんは、そんな最中じゃが、ワシがSSKの再建を引き受けたんはその後じゃ』SSKは≪原子力船むつ≫とは関係ないと坪内翁は言われた。

日本初の≪原子力船むつ≫は、1963年(S38年)8月、日本原子力船開発事業団が設立され、同じ年の10月に、内閣総理大臣と運輸大臣が、原子力船開発基本計画を決定。その後、1968年(S43年)石川島播磨重工業が船体部分を起工。その間に政府は、青森県むつ市の下北埠頭(大湊港)を原子力船の母港とすることに決め、地元に協力要請をした。これに対し地元では原子力船母港設置反対市民会議という組織が出来て、反対運動を開始した。しかし、当時の青森県知事や、むつ市市長は、母港設置に同意する回答を政府に提出した。この原子力問題に関する市民反対、行政は賛成のパターンは長く続くことになる。

歴史と人物に学ぶほど
生きた学問はない!
安岡正篤先生の言葉

大安4コマ劇場「ふく子の日常」

二宮尊徳先生のことば

「谷川の音」

山々の露あつまりし谷川の
ながれ尽きせぬおとぞ楽しき

咲けばちりちれば又さき年毎に
ながめ尽きせぬ花の色々
(「二宮翁道歌集」)

社長の心根

いつもごらんいただき、ありがとうございます。
思いのほか、4コマ劇場が好評でしたので、今後も継続していきます。
最近、特に人との縁の大切さを痛感しています。困った時に助けてくれる方がいるということは、本当に心強く感じます。
今後も、このありがたみを忘れることなく、謙虚に日々を過ごしていき、困った方がいたら、今度は私が助ける事ができるように、力を蓄えていきます。

感謝

取締役社長 平川隼大

※三男坊が2カ月に
なりました。

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