ありがとうカードBOX設置しました

ありがとうカードBOX設置しました

各営業所にありがとうカードBOXを設置いたしました。
このBOX設置の目的は「社風の向上」です。
SNSの普及により、非常に便利な世の中になりましたが、便利さゆえに一方通行のコミュニケーションになっており、相手の気持ちを考えるということが減ってしまってきていると感じています。
そんな中で、一方通行ならせめて、感謝の気持ちを手書きの温かさを皆で表現できることができれば、きっと素晴らしい職場環境になると思います。
人が増えてくると、どうしても陰口が増えます。直接言うことなく、陰で「あいつはあ~だ、こ~だ」と言いあうよりも、「ありがとう」が飛び交う職場の方が絶対に気持ちが良いし、笑顔も増えます。かといって直接言ったりカードを渡すのは恥ずかしいかもしれない。そこでありがとうカードBOXを設置して、毎月取り纏めて、給与明細の封筒に同封して全員に届くような環境を整えました。これから、まずは、地域で一番「ありがとう」が飛び交う職場に皆でしていきましょう!

タケノコ掘り&潮干狩り体験しました

 ベトナム人実習生達を中心に、家族ぐるみの交流会が頻繁に開催されるようになってきました。5月初旬には、本社の大久保さん宅にて、タケノコ掘り&BBQ大会が催され、裏山のタケノコをことごとく駆逐しつくしたとのことです。

 

 

若くて素直で陽気な彼らとの交流は、普段の仕事のつながりだけでは気づかない、仲間の良さを再認識できます。
また、参加した社員の子供は、日本人以外の国の人との交流を図ることで、とても良い体験ができているようです。

  

潮干狩りでは、残念ながら季節の変わり目で体調不良者が出て欠席が数名いましたが、参加してくれた方々は、潮干狩りを楽しむと共に、砂浜で相撲をする等して、交流を深めました。
   

ベトナム人実習生達が来てくれてから、弊社では家族ぐるみの催し物が増えてきています。
こういった催し物に参加する人たちが少しずつ増えて、仕事以外での交流を深めることで、人と人との出会い、縁を感じていただけるような職場環境を今後も皆で築けていきたいと思います。

歴史と人物に学ぶ  NSP経営躍進塾資料より 「会社再建王 坪内壽夫翁 ㊶」 著:野見山 登

坪内翁が佐世保重工の社長に就任した直後に起きた日本初の原子力船≪むつ≫ の佐世保入港の事件。・・・続き

石川播磨重工業で造られた船体は進水式を行い≪むつ≫と命名されたのである。まだ、原子炉を積んでいない≪むつ≫は、母港の大湊港に回航されて行った。
一方≪むつ≫が積む原子炉は、三菱原子力工業の大宮研究所で臨界実験が行われ、1971年(S46年)秋から年末にかけて実験を終了。原子炉は大湊港に運ばれ≪むつ≫に搭載され、艤装工事を行った。
原子炉を積み核燃料も積み込まれ、≪原子力船むつ≫は母港の岸壁で、出力上昇試験を開始しようとしていた。
1972年(S47年)のこと、だがホタテ漁に生きる陸奥湾漁民は放射能漏れによる汚染を恐れ強く反対し、出力上昇試験阻止に成功。出力上昇試験をしないと、法律によって船とは認められなく、その試験をしないわけにはいかない。
1974年(S49年)市民や漁民の反対を押し切り強行に出航、実験航海を開始した。しかし、≪原子力船むつ≫はその航海中に、陸奥湾の漁民が案じた通り、放射能漏れの事故を起こしてしまったのだ。市民や漁民が母港となるのを反対したのに、行政側が民意と逆の誘致承諾を政府に回答してしまい、放射能漏れ事故を起こしたからと言って、すぐに母港に帰れるものではあるまい。坪内翁が『あれは船なものか、ただの漂流物じゃ』と言っていた。理由は、船は試験航海を済ませて母港に戻ってから、法律によって船と認定されるのである。
船体は石川島播磨重工業、原子炉や機械類は三菱重工業神戸造船所、どこも佐世保重工業がたずさわった部分はない、しかし1978年10月(S53年)正式にはまだ船になれず、漂流物であった≪原子力船むつ≫が佐世保港に入港するについては、当時の辻佐世保市長のしたたかな政治的謀略が働いていたのだ。
その頃、SSK(佐世保重工業)は造船不況によって、退職希望者1600名に対する退職金も支払不能に陥り、倒産寸前に追い込まれていたのだ。SSK(佐世保重工業)もと海軍工廠で、佐世保市は親方日の丸の町といわれるほど、すべてをSSKに依存している自治体だった。そのSSKが倒産するようなことになれば、佐世保市も成り立たなくなって破綻する。そこで、辻一三佐世保市長が、漂流物≪むつ≫を寄港させると政府に呼びかけたのだ。その条件が、元社長だった大洋漁業の中部謙吉氏からSSKの株を譲り受けていた坪内翁を社長に担ぎ出して再建に当たらせるということだった。しかし、坪内翁は株を譲り受けた当初、中部氏から会長に据えると約束をもらっていたにもかかわらず、天下のSSKを四国の田舎社長に任せるわけにはいかないとして、一株主のままにされていたのだ。
坪内翁が株を譲り受けたのは、白洲次郎氏の依頼によって、大洋漁業の資金難を救う為だったのが、株を失った元社長中部氏の意思を尊重する者はおらず、中部氏が坪内翁会長就任のことを言い出すと、坪内翁のSSK乗っ取りだと騒ぎ立てた過去があった。
これでは異常なことで坪内翁に再建を依頼できるはずがない。しかも坪内翁以外の株主、新日本製鉄、日商岩井、日本鋼管は、SSKに対する融資の債務保証さえ拒否していた。日本鋼管に至っては、自社の幹部をSSKの社長に送り込んでいたにもかかわらず・・・SSKの経営悪化はそこまで行ってしまっていたのだが、佐世保市長の辻氏の策略は見事に当たり、九州出身の財界人をはじめ、旧海軍に関係した政治家や、佐世保と深い因縁を持つ高松宮殿下までが一斉に動き出し、坪内翁の説得にかかったのだ。しかし、坪内翁も容易に説得に応じなかった。
坪内翁が東京赤坂の料亭中川に缶詰にしてしまうような状況を作り上げた陰の功労者は、辻一三佐世保市長だった。しかし、この件に登場した人々は、それぞれの思惑があって坪内翁を担ぎ出そうとしたのであって、辻市長の場合はただ佐世保市を破綻から救うためだけに知恵を絞ったのであり、坪内翁の財力を利用しようとしただけであった。その逞しさは、のちに辻佐世保市長がSSKをも利用しはじめた事実によって、一層強く印象づけられることになる。坪内翁は1978年6月(S53年)SSKの社長に就任することとなった。『ワシかて無条件に再建を引き受けるわけにはいかん』引き受けるについて、
一番の条件は15%の賃金カット(以下坪内翁の談話)
当時のSSKの賃金は、春闘などで三菱重工を基準にしとった。三菱重工が賃上げを決めると、その後でSSKが三菱のアップした率にいくらかを上乗せして賃金を決める。会社がどうじゃ、三菱よりましなベースアップじゃぞと言うて組合の顔立てるやり方してきよったんじゃ。三菱より高いベースアップなんじゃから、組合も納得するわなあ。それを続けとったから、三菱より高い賃金じゃ。でも、会社の経営状態と関係なしに組合を納得させるためだけの賃上げの決め方じゃから、まともやない。人件費が上がるだけじゃろ、辻一三佐世保市長のやっとる会社かて、SSKに多額の売掛金をもっとった。辻産業いう会社でな。(H23年数百億の負債で倒産)船で使うプレートとか、デッキクレーンとか納めとった。旧海軍工廠のことを持ち出して、伝統あるSSKを潰すな言うて、その会社を持っとる市長が≪むつ≫を呼び寄せるんじゃ。経営状態と関係なく賃上げすることも同じなんじゃが、親方日の丸の大木に寄りかかる精神に慣れとるわけやけ。じゃから≪むつ≫に目をつけて、政府に寄港さすけんSSKを救済せなぁあかN言い出したんじゃ。辻市長がな。そうすれば自分とこの貸しも取れるしな。

歴史と人物に学ぶほど
生きた学問はない!
安岡正篤先生の言葉

daian4コマ劇場 文ちゃんの日常

二宮尊徳先生のことば

「積小為大」

大事をなさんと欲せば、小さなる事を、怠らず勤むべし。
小積もりて大となればなり。およそ小人の常、大なる事を欲して、小なる事を怠り、出来難き事を憂いて、出来易き事を勤めず。それゆえ、終に大なる事あたわず、それ大は小を積んで大となる事を知らぬ故なり。

(「二宮翁夜話」)

わたくし共は、日常のさ事小事を軽んじやすいものです。またわかりきったこと、あたりまえのことを軽視しがちですが、
そうした凡事の実行の中に、貴重な種子が宿されていることに気づきたいものです。「平凡なことを非凡にやりつづける」をモットーにせられ、「良樹細根」をモットーとせられる鍵山秀三郎先生を思います。

社長の心根

先日、沖縄のお客様の結婚式に出席してきました。
とてもアットホームで、賑やかな結婚披露宴に出席させていただき、私自身もとても幸せな気持ちとなりました。
披露宴に出席し、私も結婚当初のことを思い出し、初心に帰ると共に、妻の有難さも再認識しました。立場に甘えて、家族と向き合う時間が取れていないように思うので、もっと家庭のことも大切にしなければならないなと感じています。
そのためにも、仕事と家庭のバランスを取り、家族とのコミュニケーションをとる時間をもっと増やしていきます。

感謝

取締役社長 平川隼大

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